研究とは何か
学位(博士号)を取得する際は、博士論文を提出する必要があります。便利なことに、博士論文のタイトルはインターネットで検索することも可能です。
試しに、「雑草」と入れて検索をすると136件出てきました。ちなみに、「遺伝子」で検索したら17034件も出てきました。雑草の実に125倍でした。世の中の需要、関心を比較する一つの指標にはなるかもしれません。だからと言って、流行で研究を進めてしまうとベストセラー本の末路のように、古本屋でのたたき売りになってしまいます。
その辺が研究の位置付け、更には大学の存在意義の難しいところで、実用性の少ない研究や学部の存続をどうするかということになります。国公立大学の場合、運営費の大半は税金なので成果を社会に還元することが求められば農学部、工学部とか医学部などが重視されるかもしれません。でも、実学ばかりを追いかけていると文学とか歴史とか教養の面が欠けた人が増えてしまう可能性もあります。
最近は、どちらかというと即戦力とか実学が強調されていて成果が求められる傾向にあります。それは1つの流れとしては妥当なのですが、大学はムダを習う場でもあるような気がしています。あまり結果ばかりを求めると、小保方騒動のようなものがまた起きるかもしれません。あの騒動は、現実と研究が混同していたり、そこに色々な欲が入り込んでいるので、精神鑑定の領域かもしれませんが、成果主義が悪く作用した人々の末路かと思います。
それにしても、小保方騒動は科学に対する報道の弱さを露呈したような気がします。弁護士が介在するところまで発展していましたが、例によって曖昧なままに収束してしまいました。原発報道の時もそうでしたが、伝える側が理解していないから、核心となる質問もできずに何時間も電波を浪費していました。
話が少しそれましたが、研究というものはすぐに役立つか、ずっと役に立たないか、いつか役立つかよく分からない分野です。昔、退官したある教員が自分の研究は将来に役立つと言っていましたが‥100年後にはそういう可能性もある以上、黙って聞くしかありませんでした。でも、それを逃げ道にして好き勝手やって良いということにはならないと思うのですが、たまに自己の主張や思い込みを研究という名目で押し通している教員も存在します。
多数決とか選挙とか数字で判断できる物事であれば、ふるい分けも可能なのですが、研究というのは非常に曖昧な存在です。そんな研究のスタートが卒論、修論、博士論文です。社会に出てしまえば研究の内容など聞かれないと言ってしまえば元も子も無いのですが、物事を様々な角度から見たり、自分の頭を使う訓練としての研究は非常に良い機会です。
それと、研究成果というものは新聞やインターネットでも結構な頻度で紹介されています。ただ、過剰報道が多かったり、解釈が強引だったりするのでその辺の内容を割り引いて読む程度の読解力は身に付けておいた方が良いと思います。今は情報があふれている世の中なので、必要以上に踊らされないということも大切です。